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執筆者の写真Beyond Media

民に寄り添う政治を

更新日:2021年8月20日

Mari Adachi Editor in Chief of Beyond Media


76年前のきょう8月6日、広島に悲劇は起こった。


その広島の平和記念式典できょう、首相として初めてあいさつに立った菅総理。ボロボロだった。冒頭で「広島市」を「ひろまし」と読んでみたり、「原爆」を「げんばつ?げんぱつ?」と間違えてみたり。最悪だったのは途中の文面を読み飛ばして、結局意味のわからない挨拶になったことだ。正直、総理にとってはきょうの記念式典は単なるイチ行事にすぎず、国民にまったく寄り添っていないとしか受け取れないものだった。


今年1月、すべての核兵器の開発や実験、使用などを禁じる初の国際条約「核兵器禁止条約」が発効されたが、世界で唯一の戦争被爆国である日本はこれに参加していない。アメリカの「核の傘」の下にいるからだ。それについても本日、あいさつで触れることはなかった。


しかしここは世界唯一の被爆国として、条約には参加すべきだと私は思う。アメリカにも核兵器削減を促す、それこそが日本が取るべき市政である。さもなければ条約不参加に対して総理が自らの言葉で国民が納得のいく説明をするべきであろう。ろくに説明もせず、正面からも向き合わないのはあまりにもズルい。


76年前の原爆、投下の1か月前には準備が整っていた。開発しておいて、ではあるが、開発した科学者たちはその使用については十分考慮するべきである、という請願書をアメリカの当時の大統領、トルーマン氏に送っている。その内容がこれだ。



(米国立公文書館より)


請願書の冒頭は「アメリカ国民の知らない発見が、近い将来、わが国民の幸せを損うかもしれない」と記している。その上で原爆の使用はもう軍や政府の判断次第となっており、慎重な判断が必要だとしている。


もし原爆をどうしても使用するのであれば、それは大きな覚悟を伴うものだと述べている。特に日本に投下する場合、その前に日本国民に通知し、降伏さえすれば日本人にはしっかりとした生活の保障をする、と丁寧に伝えた上で、それでも降伏しないのであればという条件のもとでしか原爆利用は許されない、道徳的責任を真摯に受け止める必要があると述べている。


その破壊力が計り知れないものだと分かっていた科学者たち。その訴えはまったくトルーマン大統領には響かなかった。新しいオモチャを早く使ってその効果をみたい、という心のほうが大きく、科学者の歎願には目もくれなかった。1945年7月の時点でもうすでに日本の国力は全く持ってアメリカを劣っていたのは明白だった。正直、原爆を投下しなくても日本の降伏は時間の問題だった。にも関わらず、原爆投下を強行した。しかも広島だけでなく長崎にも。


リーダーに本当に必要な資質とは何か。技術革新や組織づくりへの道筋を作ることも大切だが、そのすべてのベースにあるのは「人間としての誠実さ」ではないだろうか。トルーマン大統領も菅総理も、目の前の片づけたい仕事や自分の欲求を優先するあまりに本当に大切なことを見失っているように思う。本当に人民に寄り添っているのか、今一度、真剣に考えてほしい。


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